イギリスを中心としたメリヤス業の発展

メリヤス業の産業化

靴下編機の開発者、ウィリアム・リーが亡くなった1610年、フランスから帰国した弟のジェームス・リーとその徒弟がロンドンに新工場を開設。それ以降230年の間、リーの発明したひげ針を利用したハンドフレーム機をベースにして、メリヤス業がイギリスを中心に産業として育っていった。
編機の設備はロンドンから中部地方のノッチンガム、レスター州へと広がり、ウールだけでなく綿もその素材として使用されるようになる。吸湿性のよい綿靴下はイギリスの気候に適しており、その需要が増えたこともイギリスの靴下産業が大きくなった要因の一つである。
ヨーロッパの中でもイギリスにおける靴下産業の発展はめざましく、1812年の記録によると編機の設備台数は29,632台を数える。これは全ヨーロッパの保有台数の70%にあたる。
靴下産業は、ハンドフレーム機から動力機への改良、リブ編み・柄編み機械の開発など多くの技術者によってさらに発展していく。

ダービー・リブ・マシーンの発明は、ジュデディア・ストラッド

ウィリアム・リーの開発した編機は平編み(天竺編み)用のもので、リブ編み・柄編みの製品については手編み業者が製造していた。リブ編み製品を機械的に作り出すことは、多くの人々の夢であったにちがいない。
そんな中、ダービー州に住むジュデディア・ストラッドは、メリヤス業を営む義弟のウィリアム・ウーラッドの依頼を受け、リブ・マシーンの開発研究に取り組みはじめた。
ジュデディア・ストラッドは、ウィリアム・リーの編機には手を加えず、特殊な針床の付属装置を開発することで念願のリブ編機を完成させた。そして、1758年、59年の2回にわたりイギリスの特許を受けている。ウィリアム・リーの編機が開発されてから、実に169年の歳月がたっていた。
この発明は、間もなく「ダービー・リブ・マシーン」という名で世界中に知れ渡ることとなる。(日本でも横編みで作られるリブ靴下を、戦後までダービー靴下と呼んでいた)
リブ・マシーンは、クランが1775年に開発したタテ編機とともにイギリスの編物工業に大きく貢献するが、一方では多くの手編み職人の仕事を奪っていった。1790年代には多くの地方で暴動が起き、1811年にはシャーウッドの森のキング・ラッドとかゼネラル・ラッドと呼ばれる集団があらわれ、新しい機械を次々に破壊するという事件も起きている。

べら針の発明は、マシュー・タウンゼント

メリヤス業者のタウンゼントは、故障した編機から取り出したシンカーを手にした時に、ある考えがひらめき、ひげ針の改良に取り組む。こうして「べら針」が1847年に完成し、イギリスから特許が与えられた。1849年には、ジェームス・ヒバートがアメリカで同様の特許を得ている。
べら針(Latch Needle)は、メリヤス機に根本的な改革をもたらした。ウィリアム・リーの発明したひげ針(Beard Needle)よりも編成動作が簡単なので、その後の自動靴下機や横編機の発明に大いに貢献することとなる。
所蔵品紹介
水戸光圀・ジャイアント馬場・川端康成の靴下を紹介
大正13年から昭和4年
昭和5年から昭和7年
昭和8年から昭和10年
昭和11年から昭和12年
古書にみるストッキング
ユニークなソックスを紹介
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靴下の歴史
靴下作りの技術はいつ
どこで発祥したのか
イギリスを中心としたメリヤス業の発展
多様な編機の発明の背景
メリヤスという言葉はいつ日本に伝わったのか